永昌院(山梨市)概要: 龍石山永昌院は山梨県山梨市矢坪に境内を構えている曹洞宗の寺院です。永昌院の創建は不詳ですが当寺に伝わる古文書(永昌院旧記)によると禅定院と称する密教系(真言宗)の寺院で不動明王を本尊として祀っていたとされます。
文明年間(1469〜1486)に当時の甲斐守護職武田信昌(武田信玄の曽祖父、武田家16代当主)が一華文英禅師(信昌の従兄弟、広厳院を開山した雲岫宗龍の高弟)を招いて曹洞宗に改宗し中興開山しています。
永正2年(1505)、信昌が享年59歳で死去すると永昌院の境内に葬られ、本堂裏手の開山堂内部には信昌の墓碑(五輪塔:「前刑部大輔云々」「永正二年九月十六日」)と供養塔(宝篋印塔:「奉為永昌院殿傑山勝公大禅定門神儀立焉永正二年九月十六日」)が建立されています(昭和54年山梨市指定史跡に指定)。
その後は武田家の庇護もあり、甲州曹洞宗常法幢7刹に数えられるなど寺運が隆盛し、最盛期には末寺96ヶ寺を擁する大寺院となり、武田信虎の葬儀が大泉寺(甲府市)で行われた際にも参加しています。
永昌院は天正10年(1582)、織田信長、徳川家康が甲斐に侵攻し武田家が滅亡すると外護者を失い一時衰退しますが、江戸時代に入ると再興され幕府も寺領を安堵するなど庇護しています。特に甲府藩主となった柳沢家は境内を整備するなど尽力し、境内には七堂伽藍が立ち並ぶ大寺院に発展し、江戸時代中期には曹洞宗常恒会地に昇格、修行僧も常時80人ほど抱えていました。
永昌院は明治42年(1909)の火災で総門(切妻、鉄板葺、一間一戸、四脚門)、鐘楼(入母屋、銅板葺、高欄付、外壁は吹き放し、銅鐘は山梨県指定文化財)、経蔵(寛政3年:1791年建築、土造、宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁間3間、内部には輪蔵が設置され1344冊の一切経が収められています。
昭和62年に山梨市指定文化財に指定。)の3棟以外の建物が焼失しましたが、幸いにも多くの仏像や寺宝、記録などが免れ現在でも数多くの文化財を所有しています。甲斐百八霊場第4番札所。甲斐八十八ヶ所霊場第69番札所。山号:龍石山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
永昌院の文化財
・ 絹本著色神嶽通龍禅師画像−永正11年−山梨県指定有形文化財
・ 銅鐘−永和3年−山梨県指定有形文化財
・ 永昌院総門−切妻、鉄板葺、一間一戸、四脚門−山梨市指定有形文化財
・ 永昌院経蔵−寛政3年−山梨市指定有形文化財
・ 木造十一面観音菩薩立像−平安時代後期−山梨市指定有形文化財
・ 勅賜紫衣−永正3年−山梨市指定有形文化財
・ 菊隠録−永正2年〜大永4年−山梨市指定有形文化財
・ 黄襞版一切経附輪蔵−延宝8年・寛政3年−山梨市指定有形文化財
・ 永昌院典籍−南北朝時代−山梨市指定有形文化財
・ 永昌院五人組帳−元和4年−山梨市指定有形文化財
・ 永昌院文書−室町時代〜安土桃山時代−山梨市指定有形文化財
・ 武田信昌の墓−山梨市指定有形文化財
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