江戸屋(赤沢宿)概要: 赤沢宿は日蓮宗の総本山である身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町身延)とその守護神である七面山(七面大明神)を結ぶ参道沿いに設けられた集落です。当時は急峻な山々が連なり交通事情も悪かった事から身延山久遠寺と七面山までは1日の行程で踏破する事が出来なかった為、赤沢宿が丁度宿場町のような機能を果たし、多くの参拝者が宿泊で利用しました。
赤沢宿は正式な宿場町では無い為、幕府などが許可する宿泊施設である旅籠は設けられませんでしたが、江戸時代中期頃からは制度も緩み、七面山を目指す参拝者が急激に増加するようになった事から住民の居宅を宿所として提供する例が増え(このような慣習は鎌倉時代に久遠寺が創建して以来とか?)、明治時代に入ると多くが旅館業を営むようになりました。
江戸屋は赤沢宿の中でも「大坂屋」と交代で名主と長百姓を努めた家柄で、江戸時代初期の文献に慶安3年(1650)当時の赤沢村の村役人として長百姓松左衛門(江戸屋)との記載があったそうで、現在でも甲冑や刀が大切に保管されているという話ですから、当時も名字帯刀が許されていたのかも知れません。
江戸屋の建物は木造2階建て、入母屋、鉄板葺き、平入、1階部分は江戸時代後期の天保9年(1838)赤沢宿下村で大火により焼失後の天保13年(1842)に再建、2階部分は明治10年(1877)に増築されたもので赤沢宿に残る旅館建築の中でも古い部類に入ります。
大きな特徴は略6畳間が形成出来るように柱が配され、宿泊する団体の人数によって襖の位置を設定する事で部屋の大小を自由に出来る事で、その為、小部屋でも大部屋でも対応するようにL字型に廊下と土間を配置し自由に出入出来るような空間構成となっています。
江戸屋の客間の全て畳数は100畳程だった事から一度に100名が宿泊出来る体制が整えられ(最盛期では仮眠のみで1日に4回転、約400人程が利用したそうです)、一番奥の2室が上質の客を招けるように出書院や床の間が設けられています。江戸屋は当時の旅館建築の遺構として貴重な存在で、赤沢宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、その構成要素の1つとなり、ドラマのロケ地や旅番組などでも度々取り上げられているようです。
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