恵比須屋(赤沢宿)概要: 赤沢宿は日蓮宗の総本山である身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町身延)とその守護神である七面山(七面大明神)を結ぶ参道沿いに設けられた集落です。当時は急峻な山々が連なり交通事情も悪かった事から身延山久遠寺と七面山までは1日の行程で踏破する事が出来なかった為、赤沢宿が丁度宿場町のような機能を果たし、多くの参拝者が宿泊で利用しました。
赤沢宿は正式な宿場町では無い為、幕府などが許可する宿泊施設である旅籠は設けられませんでしたが、江戸時代中期頃からは制度も緩み、七面山を目指す参拝者が急激に増加するようになった事から住民の居宅を宿所として提供する例が増え(このような慣習は鎌倉時代に久遠寺が創建して以来とか?)、明治時代に入ると多くが旅館業を営むようになりました。
恵比須屋の建物は木造2階建て、切妻、鉄板葺き、平入、正面下屋庇、2階正面手摺付、内部の詳細は不詳ですが、江戸屋や大阪屋などの大型旅館で見られるL型の縁や土間はないように思われます。
ただし、1階の軒下には「招き板(マネキイタ)」82枚が掲げられる事から人気旅館だった事が窺え、大正13年(1924)6月に明治から昭和初期の歌人として知られる若山牧水が友人と七面山登拝の折、赤沢宿で宿泊しその宿所として利用された事でも知られています。若山牧水は七面山で31首の短歌を詠み、周辺には4カ所、その内3カ所の歌碑が赤沢宿内(江戸屋旅館前・大阪屋下・赤沢石畳最上部)に建立されています。
江戸屋旅館前−「朴の木と先に思ひし近づきて霧走るなかに見る橡若葉」
大阪屋下−「花ちさき山あぢさゐの濃き藍のいろぞ澄みたり木の蔭に咲きて」
赤沢石畳−「雨をもよほす雲より落つる青き日ざし山にさしゐて水恋鳥の声」
羽衣橋(七面山)−「山襞のしげきこの山いづかたの襞に啼くらむ筒鳥聞ゆ」
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