赤沢宿 |
赤沢宿(早川町)は元々、山間の小さな集落だったと思われますが、文永11年(1274)に身延山に日蓮上人が草庵を設け、日蓮宗の守護神である七面大明神を祭る七面山が開山すると、身延山と七面山を結ぶ街道が整備され、街道沿いにあった赤沢宿はその中継地として次第に整備されていきました。身延山久遠寺と七面山は徒歩では1日以上かかる工程だった事から当初は主に物資の中継地だったようですが、江戸時代中期以降に一般庶民も日蓮宗が広がると、参拝者や登拝者が飛躍的に増加し、赤沢宿で宿泊した後に七面山に向かう事が常となりました。明治時代以降も繁栄が続き太平洋戦争直前まで登拝者が絶えなかったとされますが、戦争後は下火となり麓まで舗装道路が開通すると赤沢宿の重要性が失われ急速的に衰微しました。赤沢宿は大規模な近代化が図られなかった事から現在でも当時の講中宿の町並みが奇跡的に残され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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下部温泉 |
下部温泉(身延町)は平安時代の承和3年(836)に熊野権現の化身が出現し、そこから源泉が湧き出したと伝えられています。一方、下部温泉の守護神である熊野神社の由来によると、天長7年(830)に甲斐国主藤原正信が下部温泉に湯治に訪れていた際、熊野権現が出現し、御告げに従い熊野神社を創建したと伝えられています。伝承が正しければ平安時代には既に存在していた事となり、鎌倉時代には日蓮宗の開祖日蓮が湯治に訪れた記録(日蓮聖人遺文)に残されて室町時代には向嶽寺の開祖とされる抜隊得勝が入湯しています。その後、湯之奥金山が開発されると、金山の消費地として発展し、当地の領主で武田家の家臣である穴山氏が温泉街を開発したとされ、これらの経緯から武田信玄の隠し湯とも云われています。武田家が滅亡し、甲斐国が徳川領になると、徳川家康も下部温泉に入湯したとし、その免状が残されています。現在でも温泉街の懐かしい町並みが残されています。
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台ヶ原宿 |
台ヶ原宿は甲州街道の宿場町として整備された町です。甲州街道が何時頃から開削されたのかは不詳ですが、戦国時代には原型とされる道筋があったとされ、時代が下がるに従い随時整備され、それに付随する宿場町も町割りされていきました。江戸時代に入ると、高遠藩、飯田藩、諏訪藩の3藩の参勤交代で利用されている他、台ヶ原宿に境内を構える田中神社は「お茶屋壺道中」の宿所となりました。お茶屋壺道中は慶長18年(1613)から宇治茶を徳川将軍家に献上する為に行われたもので、概ね往路は東海道、復路は甲州街道、中山道を利用し、最盛期には1000人以上の行列になったとされ、大名行列よりも形式がかっています。甲州街道の宿場町はその後の開発や火災などにより原型を失う例が多い中、台ヶ原宿は比較的良好な町並みが残されている事から日本の道百選に選定され、中でも江戸時代後期に建てられた北原家住宅は山梨県指定有形文化財に指定されています。
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