那賀都神社(山梨市)概要: 大嶽山那賀都神社は山梨県山梨市三富上釜口に鎮座している神社です。 那賀都神社の創建は景行天皇の御代、日本武尊が東夷東征の際、国司ヶ岳の天狗尾根を訪れ大山祇神、大雷神、高オカ神の3神の分霊を勧請し佩剣を御神体としたことが始まりと伝えられています。伝承によると日本武尊が当地を訪れた際、厚い霧に阻まれ何処に居るのかさえ判らなくなった為、岩室に陣を張り上記の3神に祈願すると、神託があり皇子の進む方向を指示したとされ、神意に感謝して3神を祀ったと伝えられています。
天武天皇の御代(673〜686年)、役行者小角(修験道の開祖)が修験道場として開山、その際、大山祇神(木花咲耶媛命の御父神)だけを祀ると、不思議と雷鳴が鳴り響き当山は「三神を祀るべきである」との神託を受けた為、役行者小角も恐れおののいたそうです。
養老元年(717)に現在地に遷座、この年、泰澄大師(白山を開山した修験の高僧)も当社を訪れ、山頂の神域に注連縄を張る7日7晩祈祷を行いました。
天平7年(737)、行基菩薩(奈良時代の高僧)が当社を訪れ観世音菩薩を自ら彫り込み「赤の浦 鳴渡ヶ崎に那留神の みゐづや高く 那賀都とは祈る」と神歌を奉じたことで「大嶽山那賀都神社」と称するようになったそうです。
さらに天長8年(833)には弘法大師空海(真言宗の開祖)もこの地を訪れ修行を重ね、山内には弘法の絵書石、清浄の滝、座禅岩と呼ばれる空海縁の史跡が点在しています。江戸時代初期に社殿が崩壊したことで社運が衰退し、元文5年(1740)に羽黒派修験東叡山支配となり社殿再建されます。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏教色が排除され社号を那賀都神社に改め、明治6年(1873)に村社に列しています。
現在の那賀都神社殿は地元の名医として知られた喜多島宗甫が奉納したもので、嘉永3年(1850)から明治10年(1877)にかけて計画され彫刻は福田俊秀(伊豆の彫刻師石田半兵衛の子供)が担当、中でも本殿は一間社、入母屋、銅板葺、妻入、正面左右両側に1軒軒唐破風向拝付、建物全体に精緻な彫刻が施されている瀟洒な建物で、昭和57年(1982)に山梨市(旧三富村)指定文化財に指定されています。
神社山門は寺院の山門(仁王門)として計画されたものの、神仏分離を経て随神門に変更になったもので入母屋、銅板葺、正面軒唐破風、三間一戸、八脚楼門、現在は大天狗・小天狗が安置されています。祭神:大山祇神、大雷神、高オカミの神。山号:大嶽山。
【 日本武尊 】-大嶽山那賀都神社にも日本武尊の伝説が残されています。一般的な解釈とすると尊は東国平定を完遂すると常陸国(茨城県)→武蔵国(東京都・埼玉県)→相模国(神奈川県)足柄御坂→酒折の宮(山梨県甲府市)に入り、さらに上野国(群馬県)を経由して信濃国に到ったと考えられるものの、かなりいびつな経路を辿った事になります。
逆に酒折の宮以降は北杜市に多くの尊の伝承や遺跡が点在している事から甲府からは近世に甲州街道と呼ばれた街道筋を利用し信濃に入ったと想定する方が自然なのですが、そうなると上野国(群馬県)に残されている伝承や史跡に矛盾する為、甲府からは雁坂峠を越えて再び武蔵国の秩父に入り、そこから上野国(群馬県)に向かった事になります。
この街道が何時頃に開削されたのかは判りませんが、戦国時代には武田信玄の軍事用路「甲斐九筋」の一つとして利用されています。江戸時代以降は「秩父往還」や「彩甲斐街道」、「雁坂みち」と呼ばれ、五街道に数えられた甲州街道の脇往還的な存在だったようで、雁坂峠(標高:2082m)は針ノ木峠(標高:2541m)、三伏峠(標高:2580、)と共に日本三大峠に数えられました。
他サイトを見ると「日本書紀景行記」という文書に日本武尊がこの街道を利用した事から日本最古の峠道とされ、「秩父風土記」には「日本武尊が草木篠ささを刈り分け通りたまえる刈り坂なり」と評した事が雁坂峠と呼ばれた由来になったと記されていました。
ただし、自分が知る限りでは「日本書紀景行記」という文書の存在は不詳で、日本書紀には雁坂峠と思われる部分を見る事は出来ません。「秩父風土記」は江戸時代後期の文政年間(1818〜1830年)に纏められたものとされる為、少なくとも江戸時代後期には雁坂峠には日本武尊の伝説が流布していた事が窺えます。
大嶽山那賀都神社は正に雁坂峠と甲府との間に鎮座する神社で、上記の伝説を補完しています。大嶽山那賀都神社の由緒によると景行天皇の御代、景行天皇の皇子である日本武尊が東夷東征の砌、甲武信の国境(雁坂峠と思われます。)を越えようとしたところ、急に霧が立ち込め、方向性を失った為に立ち往生しました。
尊は見晴らしの良い岩室(国司ヶ岳の天狗尾根)に登り、大山祇神、大雷神、高おかみの神の3神に祈願すると神託があり、尊が向かうべき方向を指し示した事から神意に感謝し岩室に剣を留め置き3神を祭ったと伝えられています。その後、麓の現在地に遷座しましたが、国司ヶ岳の天狗尾根は奥之院として現在も信仰の対象となり、剣が朽ちる毎に新たな剣が奉納されているようです。
大嶽山那賀都神社の歴史が明確になるのは江戸時代中期以降の事で、江戸時代後期に別当寺院だった羽黒修験観音寺が甲府城の城代である松平伊予守定能に対して由緒の提出が求められ(幕命により「甲斐国志」の編纂が行われた)、その由緒には、養老元年(717)3月18日に国司ヶ嶽に鎮座した事や当時は小祠で宝永元年(1704)頃に再興した事などが記されていたようです。
この事から察すると、宝永元年(1704)頃に再興された際に由緒が改めて制作され、この時に日本武尊や役行者、泰澄、行基、空海の伝説が造られたのかも知れません。
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