甲州市: 恵林寺

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概要・歴史・観光・見所

恵林寺(甲州市)概要: 乾徳山恵林寺は山梨県甲州市塩山小屋敷に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。恵林寺の創建は元徳2年(1330)、当時の領主二階堂貞藤(道蘊:甲斐牧ノ庄地頭職)が夢窓疎石(鎌倉末期から室町時代初期の臨済宗の高僧)を招き開山したのが始まりと伝えられています。

二階堂氏の庇護の元、絶海中津や龍湫周沢といった名僧が住職になるなど寺運が隆盛し甲斐国における臨済宗の中心として関東準十刹の格式を得ていました。応仁の乱の兵火により堂宇が焼失し一時荒廃しますが、永禄年間(1558〜1570年)に武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)が快川紹喜(崇福寺住職:岐阜県岐阜市)を招き恵林寺を再興すると、自らの菩提寺と定め寺領300石を寄進しました。

元亀4年(1573)に信玄が西上作戦(京都上洛)の途中で死去すると遺言により信玄の死が3年間秘匿とされ、天正4年(1576)に武田勝頼が喪主となり快川紹喜が大導師を務め恵林寺で葬儀を行われました。

天正10年(1582)、織田信長と徳川家康連合軍が甲斐国に侵攻し、追い込まれた武田勝頼が自害し武田家が滅亡すると、恵林寺が佐々木義治(近江の豪族:六角義定)を匿いました。織田方は義治の引渡しを要求しましたが恵林寺は拒否した為、境内に火が放たれ、その際、快川紹喜は三門の楼上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と遺喝を残し焼死したと云われています。

同年、本能寺の変で信長が死去すると徳川家康が領主となり恵林寺を再興、雲巌寺(栃木県大田原市)に逃避していた末宗瑞曷を呼び戻し堂宇を再建しています。宝永元年(1704)、柳沢吉保(5代将軍徳川綱吉の側用人)が甲府藩15万石の藩主となると柳沢家が帰依し堂宇の修繕などが行われ、享保9年(1724)、2代藩主柳沢吉里が大和郡山藩へ移封になった際、菩提寺だった永慶寺から吉保の遺骸が恵林寺境内へ改葬されています。

焼き討ちで焼落ちた恵林寺山門
焼き討ちで焼落ちた恵林寺山門

現在の恵林寺四脚門は桃山時代に建てられたもので、切妻、檜皮葺、一間一戸、全体が朱色に塗られていることから「赤門」の別称があり、当時の寺院建築の遺構として大変貴重なことから明治40年(1907)に国指定重要文化財に指定されています。

恵林寺三門は信長の兵火で焼失後再建されたもので一間一戸、入母屋、檜皮葺、四脚楼門形式、外壁は真壁造り板張り、上層部高欄付、門の柱には「安禅不必須山水」と「滅却心頭火自涼」の額、三門の意味は三解脱門とされる空門・無相門・無願門の3つ門の意味が由来になっているそうです。

恵林寺三門は楼閣部より大きく張り出した軒先が印象的で、組物や彫刻は室町時代末期から桃山時代の技法、工法が継承される貴重な遺構として昭和60年(1985)に山梨県指定文化財に指定されています。

本堂背後に広がる庭園は夢窓疎石が作庭したと伝わる池泉回遊式庭園で、京都の西芳寺、天竜寺と共に夢窓疎石の代表作として貴重なことから昭和19年(1944)に国指定名勝に指定されています。

恵林寺開山堂は元文5年(1740)に造営されたもので、木造平屋建、入母屋、銅板葺き、妻入り、桁行6間、梁間3間、真壁造り、内部には恵林寺に重きを成した夢窓国師、快川国師、末宗和尚の木像が安置されています。恵林寺開山堂は江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から平成8年(1996)に甲州市指定文化財に指定されています。

甲斐百八霊場第9番札所。甲斐八十八ヶ所霊場第73番札所。山号:乾徳山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦如来。

恵林寺:上空地図

【 恵林寺菩提者:武田信玄 】-武田信玄は甲斐国守護職で、武田家18代当主である武田信虎と大井の方(大井信達の娘)の嫡男として生まれました。天文5年(1536)に元服し、三条の方(三条公頼の娘)と再婚、天文10年(1541)に父親である信虎が駿河国の今川家に滞在中に領内を封鎖し、家督の強奪と家臣団を掌握しています。

信玄がクーデターとも言える家督争奪劇を起こしたのは諸説ありますが、信玄個人としては日頃から信虎とは仲が悪く、逆に寵愛を受けた弟である信繁に家督が譲られる可能性が高かったとされ、一方、家臣団の方は度重なる遠征により領内が疲弊し信虎に対して不満が募っていたとも推定されています。

ただし、信玄が家督を継いだ後も他国への侵攻は続き、天文11年(1542)には信濃国諏訪地方の領主で信濃国一宮である諏訪神社上社の大祝家である諏訪頼重(信玄の妹婿)を滅ぼし、天文12年(1543)には信濃小県郡長窪城(長野県小県郡長和町)の大井貞隆を滅ぼし、天文15年(1564)には内山城(長野県佐久市)攻め、天文16年(1547)には志賀城(長野県佐久市)攻めが行われ信濃佐久地方が略掌握しています。

天文22年(1553)になると北信濃の小笠原氏と村上氏との対立が激化し、その後ろ盾となった上杉家との関係が悪化すると、天文23年(1554)に甲相駿三国同盟(甲斐:武田家・相模:北条家・駿河:今川家)を結び後顧の憂いを絶つ外交政策を行っています。

その後、数度に渡る上杉謙信との川中島の戦いを経て北信濃がある程度安定すると、木曽や飛騨、美濃、上野にも侵攻を開始し領地拡大に力を注いでいます。

永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで同盟者だった今川義元が織田信長に討たれると、今川家の領地侵攻を画策した信玄と義元の娘を正室として迎えていた嫡男武田義信との対立を招き、結局義信は幽閉され永禄10年(1567)に自刃に追い込まれています。永禄11年(1568)から本格的に駿河国に侵攻し、永禄12年(1569)には北条氏真を追放し駿河国を掌握しています。

スピリチュアルな雰囲気が感じられる恵林寺境内
スピリチュアルな雰囲気が感じられる恵林寺境内

しかし、甲相駿三国同盟を破棄した事で、北条家との対立を深め、結果的に織田信長の台頭を招き武田家だけでは織田家を押さえる事が出来ない事態となっていました。その後、室町幕府15代将軍足利義昭が画策した信長包囲網に参画し、元亀3年(1572)その一環として信玄は西上作戦を決行、三方原の戦いでは織田・徳川連合軍に大勝し、特に徳川軍には壊滅的な被害を与えました。

しかし、元亀4年(1573)、三河野田城(愛知県新城市豊島本城)を包囲している最中に信玄の病による体調悪化で自領に引き上げる事になり、その帰還の途中、信濃駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場:※所説有り)で息を引き取ったとされます。

跡を継いだ、4男の武田勝頼は遺言に従い3年後の天正4年(1576)に恵林寺(山梨県甲州市)で本葬が営まれ、恵林寺の境内に葬られ墓碑が建立されています。享年53歳。法名:恵林寺殿機山玄公大居士。武田信玄の菩提寺である恵林寺には信玄の墓碑の他、信玄の縁の品々が奉納されています。

恵林寺の文化財
・ 恵林寺四脚門−桃山時代−国指定重要文化財
・ 恵林寺庭園−室町時代−国指定名勝
・ 太刀(銘来国長)−国指定重要文化財
・ 短刀(銘備州長船倫光)−応安2年−国指定重要文化財
・ 恵林寺三門−桃山時代−山梨県指定有形文化財
・ 木造夢窓国師坐像−山梨県指定有形文化財
・ 不動明王及二童子版木−山梨県指定有形文化財
・ 恵林寺文書−山梨県指定有形文化財
・ 和漢朗詠集−山梨県指定有形文化財
・ 孫子の旗−山梨県指定有形文化財
・ 諏訪神号旗−山梨県指定有形文化財
・ 柳澤吉保・定子関係資料一括−山梨県指定有形文化財

甲州市:神社・仏閣・再生リスト
恵林寺:周辺駐車場地図

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ


恵林寺:ストリートビュー

恵林寺:写真

恵林寺正面にある歴史が感じられる総門(赤門)を撮影した画像
[ 付近地図: 山梨県甲州市 ]・[ 甲州市:歴史・観光・見所 ]
恵林寺三門と石灯篭を写した写真 恵林寺三門から見た境内の様子を撮った画像 恵林寺三門と「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」の石碑 恵林寺境内西端にある格式が高い勅使門
恵林寺開山堂とその前に作庭された清々しい白州の石庭 重厚な屋根が印象的な恵林寺の庫裏 恵林寺庫裏の前に作庭された石庭とカッコいい松の姿 恵林寺境内に設けられた瀟洒な三重塔(佛舎利宝塔)
恵林寺の廟所門とその前に置かれている石燈籠 恵林寺境内に設けられた土蔵造りの経堂 恵林寺の境内に時を告げる鐘楼 恵林寺のよく手入れされている庭園と池


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