東光寺(武田義信・諏訪頼重:菩提寺)

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【 菩提者 】 武田義信は天文7年(1538)に武田家19代当主武田信玄の嫡男として生まれました。天文19年(1550)、13歳で元服した際、武田家と同盟を結んでいた今川義元の娘と結婚しています。天文23年(1554)の初陣では信濃国佐久郡の知久氏の反乱を鎮め、小諸城(長野県小諸市)も開城させる功績を挙げ、その後も川中島の戦いで奮戦するなど将来を嘱望されていました。しかし、永禄8年(1565)、武田信玄に対して謀反の画策が露呈し東光寺(山梨県甲府市)に幽閉され、永禄10年(1567)に東光寺で死去、享年30歳。何故、義信が謀反を起こしたのかは不詳ですが、一般的には永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が打ち取られた以降、今川家の衰退が顕著になった為、信玄は今川家の同盟を破棄し駿河国(静岡県中部・北東部)、遠江国(静岡県の大井川以西)に侵攻を開始、義信は正室として義元の娘を迎えていた事もあり今川家との関係修復に奔走し謀反に繋がったとされます。謀反に加担した飯富虎昌や長坂源五郎(昌国)、曽根周防守は処刑となり、武田家の戦力が大きく削がれただけでなく、次期当主として目されていた義信の死により、今後の武田家に大きな影を落とす事になりました。

諏訪頼重は諏訪大社上社の大祝を担った諏訪頼隆の嫡男として永正13年(1516)に生まれ、自身も幼少期に大祝を務めました。諏訪大社は古代から続く古社で、信濃国に鎮座する神社の中で最高位である一之宮として国事の催事に大きく関わり、大祝とはその祭祀を司りました。諏訪氏は大祝として諏訪大社の祭祀を司る一方でその力を背景に周辺を支配する領主でもあり、戦国時代には周辺にも版図を広げる程の勢力を持ちました。天文8年(1539)に頼隆が死去すると頼重が家督を継ぎ、天文9年(1540)には武田信虎の三女「禰々」と婚姻関係を結ぶなど好を通じていましたが、天文10年(1541)に信虎が嫡男晴信(後の武田信玄)に追放されると、関係性が失われます。天文11年(1542)に晴信(信玄)の諏訪侵攻により降伏すると、頼重は捕縛され甲府に連行された上で東光寺(甲府市)に幽閉され、その後自刃しています。頼重の娘(諏訪御料人)は晴信(信玄)の側室で、後に武田家最後の当主となった武田勝頼を生んでいます。東光寺の境内には武田義信の墓碑・諏訪頼重の墓碑・柳沢吉里子息の墓碑が建立されています。

東光寺は甲府五山(東光寺・能成寺・長禅寺円光院法泉寺)に選定され寺運が隆盛しました。

【 寺  号 】 東光寺
【 所在地 】 山梨県甲府市東光寺
【 創建年 】 保安2年(1121)
【 開  山 】
【 開  基 】 新羅三郎義光
【 山  号 】 法蓋山
【 宗  派 】 臨済宗妙心寺派
【 本  尊 】 薬師如来
【 備  考 】 武田義信の墓碑・諏訪頼重の墓碑・柳沢吉里子息の墓碑
山梨県大名菩提寺
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