菅田天神社(甲州市)概要: 菅田天神社は山梨県甲州市塩山上於曽に鎮座している神社です。菅田天神社の創建は承和9年(842)、仁明天皇の勅命により当時の甲斐国司藤原伊勢雄が甲斐少目飯高浜成に命じて建立したのが始まりと伝えられています。当初は神田明神と称していましたが寛弘元年(1004)、一乗天皇の勅命により菅原道真の分霊を勧請合祀し、菅田天神社と称するようになりました。甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光が甲斐を領して以来、甲斐源氏の守護神(鎮守)として崇敬され、承久年間(1219〜1221年)に武田信光が社殿を造営し、応永16年(1410)には武田家から石灯籠が奉納されています。特に後裔の武田家の本拠地(躑躅ヶ崎館:武田氏館)となった府中(山梨県甲府市)からは鬼門(北東方向)に当る為信仰の対象となりました。
武田信虎が躑躅ヶ崎館に本拠を移すと、信仰の中心は府中八幡宮に移り、国内の神社の神官は八幡宮への参勤が義務付けられましたが、菅田天神社の神官は格式が高い為に免除となっています。社宝である小桜韋威鎧兜大袖付は新羅三郎義光が父親である源頼義から譲り受けたもので(頼義は天喜4年:1056年に後冷泉天皇から下賜された)、甲斐源氏の家宝として代々武田家が引き継ぎ、於曽氏により厳重に管理されていました。
天正10年(1582)の織田信長甲斐侵攻により武田勝頼が天目山麓に追い込まれた時、嫡子である信勝に小桜韋威鎧兜を装着させ家督を譲り父子共に自害して果てたとされ、その後、小桜韋威鎧兜は家臣(田辺左衛門尉)により隠され、平時になった時を見計らい武田家と縁のある菅田天神社に奉納されました。
武田家滅亡後に領主となった徳川家康は天正11年(1583)に参拝に訪れ武運長久の祈祷が行われ、菅田天神社に対して社領8貫250文を寄進し永久祈願所としています。江戸時代に入ると引き続き庇護され、慶長7年(1602)と正徳2年(1712)に社殿が造営され、社領11石8斗を安堵されています。明治時代に入り神仏分離令が発令されると仏教色を廃して明治7年(1875)に村社、大正13年(1924)に郷社、昭和3年(1928)に県社に列しています。
菅田天神社神門は切妻、銅板葺き、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、木部朱塗り、左右に随身像安置。拝殿は木造平屋建て、入母屋、正面千鳥破風、銅板葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木部朱塗り。本殿は一間社流造、銅板葺き。小桜韋威鎧兜大袖付は極めて貴重な事から昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
境内は神域だった為、古木大木が多く、名称「菅田天神社のカシ群(ツクバネガシ・オオツクバネガシの2種 )」として昭和38年(1963)に山梨県指定天然記念物に指定されています。境内に建立されている石灯篭は室町時代に奉納されたもので、安山岩製、総高165p、貴重な事から平成7年(1995)に甲州市指定文化財に指定されています。祭神:スサノオノミコト、五男三女神、菅原道真。
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