於曽屋敷(甲州市)概要: 於曽屋敷は室町時代の文安年間(1444〜1449年)に築造されたものです。於曽氏は甲斐源氏である加賀美遠光の4男、5男が当地に配され地名に因み「於曽」姓を名乗たとされ、その後、後裔がこの地に土着し数代に渡り支配しましたが、戦国時代に入り於曽氏の一族が武田家家臣板垣氏の名跡を継いでいます。
屋敷跡は東西112m、南北153m、2重の堀と土塁(幅10.6m、高さ3m・内土手、外土手称され、東側は権兵衛川を天然の堀に見立てていたようです。)に囲まれているもので、土塁上には板塀が設置されていたと推定され、屋敷の北東隅には鬼門鎮守として土宮神が祭られていました。
天正10年(1582)、武田家の滅亡ととも於曽氏も没落し屋敷も荒廃しましたが、その後許され、廣瀬を名乗り帰農しています。屋敷の近くには関係者と思われる板垣権兵衛が切腹した際に腰掛けたと伝わる「板垣権兵衛の切腹石」が残されています。
現在でも於曽屋敷の跡地には土塁や堀などの遺構が残り、中世の居館跡として極めて貴重な存在で昭和38年(1963)に山梨県指定史跡に指定されています。
於曽屋敷:上空画像
|