犬目宿(上野原市)概要: 犬目宿は甲州街道の宿場町で天保14年(1843)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒(大3軒、中3軒、小7軒)、人馬継立問屋場などがあり家屋56戸、人口255人と現在の上野原町にある甲州街道の宿場町では最大規模で中心を成していました。ただし、尾張徳川家は犬目宿の本陣ではなく、間宿である新田宿の米山家を本陣として利用したそうです。
元々の犬目集落は現在地より600m下方の斜面に散在していましたが江戸時代中期の正徳2年(1712)に現在地に集められ宿場町として整備されました。
犬目宿は昭和45年(1970)の大火で、家屋の6割を焼失してしまったことで古い建物は殆ど残っていませんが宿場内には天保7年(1836)の大飢饉による甲州一揆の首謀者「犬目の兵助」の生家跡や墓があります。兵助は一揆勢3万を率いた後は捕縛を免れ全国様々の地域に逃亡の旅を続け木更津に落ち着くと算術指南となり晩年は犬目に戻り71歳で大往生を遂げています。
街道筋にある宝勝寺は当地で一番の古刹で甲斐88ヶ所の第6番札所に選定されています。又、犬目宿から見た富士山は「犬目富士」と呼ばれる程で、葛飾北斎や歌川広重もここから犬目峠当たり付近から眺めた富士山を題材としたとされます。
|