旧星野家住宅(大月市)概要: 星野家は甲州街道下花咲宿の本陣、庄屋、問屋を務めていた家柄で、大名の参勤交代の際は大名の宿泊や休息に利用され、明治13年(1880)の明治天皇の巡幸の際には「御小休」で利用されました。甲州街道を参勤交代で利用したのは高遠藩(長野県伊那市高遠町)、高島藩(長野県諏訪市)、飯田藩(長野県飯田市)の3藩に限られた為、本陣職以外にも多種多様の商品を取り扱う豪商としての一面もあり大きく繁栄しました。
現在の旧星野家住宅主屋は天保6年(1836)の火災後の嘉永2年から4年(1849〜1851年)に建てられたもので、木造2階建て、切妻、平入、桟瓦葺(旧板葺)、桁行12間(21.8m)、梁間8間(14.50m)、外壁は腰壁と妻面の1部が押縁下見板張でその他が真壁造りの白漆喰仕上げられ、間口が大きく2階正面にはベランダと手摺が廻っています。当時の甲州街道の本陣建築として貴重な存在で旧星野家住宅主屋、籾蔵及び味噌蔵、文庫蔵、家相図は昭和51年(1976)に国指定重要文化財に指定されています。
【 下花咲宿 】−下花咲宿は甲州街道の宿駅として成立した宿場町で、江戸時代後期の記録によると本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠22軒、宿場長さ4町16間の規模がありました。宿場の近くには一里塚が設けられ、江戸時代後期の天保13年(1842)に建立された「しはらくは 花の上なる 月夜かな」の芭蕉句碑が残されてます。現在は道路の拡幅や過疎化などににより往時の町並みが大きく失われています。
【 甲州街道 】−甲州街道は江戸時代初期には開削された街道で、特に江戸城が落城した際に撤退する経路として位置付けられた為に重要視され五街道に数えられました。経路は中山道の下諏訪宿から分岐し、江戸城の城下町の入り口にあたる内藤新宿まで38宿で構成され、同区間を比べると中山道より短かったものの、上記のように軍事利用される事が想定された為、参勤交代で利用する諸侯は高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩に限られました。
旧星野家住宅:上空画像
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