南部町: 最恩寺

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概要・歴史・観光・見所
最恩寺(南部町)概要: 福士山最恩寺は山梨県南巨摩郡南部町福士に境内を構えてる臨済宗妙心寺派の寺院です。最恩寺の開創は不詳ですが伝承によると平安時代の長久年間(1040〜1043年)に開山したと伝えられています。創建当初は天台宗に属し名僧として知られた行基菩薩が彫刻したとされる阿弥陀三尊像を祀っていましたが、領主である武田家が臨済宗を帰依していた事もあり室町時代の応永年間(1394〜1428)に立翁禅師が臨済宗に改宗しています。以後、武田家が庇護し、仏殿、方丈、庫裏などを造営し伽藍が整備され、武田信玄も駿河侵攻の際には最恩寺で戦勝祈願を行い寺領の寄進を行っています。応永25年(1481)、武田家と血縁関係が深く有力な家臣である穴山氏が当地域の領主になると穴山氏が庇護し穴山信君や勝千代が禁制や棟別諸役免除などを発給した文書が残されています。

当時の当主穴山信君は、武田信玄の甥にあたり武田二十四将の1人に数えられていましたが信玄が死去すると跡を継いだ武田勝頼と対立するようになり天正10年(1582)に織田信長、徳川家康連合軍が甲斐に侵攻すると、領土を安堵を条件に早々と織田方に寝返り信任を得ました。同年、安土城(滋賀県安土町)で信長に謁見し、その後遊覧していた最中に本能寺の変が発生、急いで甲斐に帰国する途中に土民に殺害されました。跡を継いだ勝千代は生母である穴山梅雪夫人が武田信玄と正室である三条夫人との次女という事もあり武田家の名跡を継ぎましたが天正15年(1587)に享年16歳で疱瘡が原因で病死し穴山家は断絶しています。天正17年(1589)、穴山梅雪夫人(元和8年:1622年死去。戒名:見性院殿高峯妙顕大姉)は息子の菩提を弔う為、領内にある最恩寺を中興開基し勝千代の菩提寺としました。貞享2年(1685)7月の火災により方丈や庫裏など多くの堂宇や寺宝、記録など焼失し大きな被害を受けましたが仏殿だけは偶然にも被害を受けず当時の姿を留めています。

現在の最恩寺仏堂は室町時代初期の応永2年(1395)に建てられたと伝えられる建物で入母屋、銅板葺、一重もこし付、平入、桁行1間、梁間1間、身舎の外側に1間分の回廊を設け構造ではない外壁を設けています。中国宋時代の仏殿建築の様式を採用し、組物や彫刻、花頭窓、弓欄間など細部や意匠が当時の姿を継承純唐様建築の代表的な遺構として大変貴重な事から昭和28年(1953)国指定重要文化財に指定されています(附:厨子1基・棟札1枚)。寺宝である絹本着色穴山勝千代画像は穴山梅雪夫人(見性尼)が勝千代の死を悲しみ、14歳の元服姿を土佐派の絵師に描かせたもので紆余曲折の後、明治に入り最恩寺に譲られ昭和43年(1968)に山梨県指定文化財に指定されています。本堂背後の墓域には穴山勝千代の墓と伝わる墓碑が建立されています。甲斐百八霊場第107番札所。山号:福士山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦如来。

最恩寺:写真

最恩寺
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