【 概 要 】−源清光は、河内源氏の2代目棟梁である源頼義の3男源義光(新羅三郎)の3男(又は2男)、源義清の子供とされる人物です。義清は義光から常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に譲り受けた事から武田患者と呼ばれるようになり、大治5年(1130)に同じ源氏から発生した佐竹氏や大掾氏と領地の境界争いを発生させた罪により清光と共に甲斐国の市河荘に配流となっています(源義光の嫡男である佐竹義業又は大掾盛幹と問題を起こし朝廷により裁定されています)。
その後、巨摩郡平塩岡(山梨県西八代郡市川三郷町市川大門:甲斐源氏旧跡の碑)に館を構えた後、八ヶ岳南麓の巨摩郡逸見郷へ進出、久安元年(1145)に義清が死去すると清光が家督を継ぎ逸見冠者を称したと思われます。清光は谷戸城(逸見山の館:北斗市大泉町谷戸)を本拠に甲斐源氏の基礎を固め、保延6年(1140)に武田八幡宮(山梨県韮崎市)で元服を果たした2男、武田信義が甲斐武田家の祖となっています。
仁安3年(1168)又は正治元年(1199)に死没すると、自ら創建したと伝わる清光寺(山梨県北杜市)に埋葬されたと思われ、清光寺の境内には源清光(逸見黒源太清光)と新羅三郎義光墓碑が建立され北杜市指定史跡に指定されています。
源清光の居城(又は詰城)とされる谷戸城は平安時代後期から鎌倉時代初期に築かれたと思われる平山城で、山頂部には深い空堀と高い土塁に囲われた主郭を中心に同心円上の郭が配されていました。麓には東衣川、西衣川が流れ、川の流れにより形成された断崖が3方を固めた天然の要害です。清光が死去した後、何時の間にか居城ではなくなりましたが、軍事的な要衝だった事もあり度々砦として利用されていたようです。谷戸城は、歴史的な意義も大変深い事から平成5年(1993)に国指定史跡に指定されています。現在は復元工事が進み史跡公園として整備されています。
武田八幡宮(山梨県韮崎市)は弘仁13年(822)に八幡神を勧請して創建された神社で、上記のように保延6年(1140)に武田信義(清光の2男で清光が死去すると家督を継いでいます)が武田八幡宮で元服した伝承や、武田家が甲斐源氏出身で、八幡神は源氏の氏神だった事から、歴代武田家から篤く庇護されました。
山梨県では清光に関わる伝説や伝承が多く、平安時代後期には金桜神社(山梨県甲府市)の社殿を造営、保元年間(1156〜1158年)には円光院(山梨県甲府市)を創建、久寿年間(1154〜1155年)には成就院(山梨県笛吹市)を創建したと伝えられています。
|