武田信治(穴山勝千代):概要

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武田信治(最恩寺)

【 概 要 】−武田信治の幼名は穴山勝千代で、甲斐国河内領の国人領主(国衆)である穴山信君(梅雪)と武田信玄の娘である見性院の嫡男です。穴山家は元々、駿河国及び遠江国の守護大名である今川家に仕えていましたが、戦国時代に武田家に転じ、縁戚関係を深める事で武田家御一門衆筆頭として重きを成していました。

しかし、天正3年(1575)の長篠の戦いで武田家が織田・徳川連合軍に大敗し、天正9年(1581)に信君の嫡男である勝千代と武田家当主、武田勝頼の娘との間に交わされた婚約が破棄されると、天正10年(1582)に信君は本領安堵と武田家の名跡を継ぐ事を条件に密かに徳川家康を通じて織田家に転じました。

当然、織田、徳川の武田領侵攻の際には自領の通過を許し、武田家滅亡の一因となっています。信君は家康に従い安土城(滋賀県近江八幡市安土町)信長に謁見、その後、堺などを見物していた際に本能寺の変が発生し、急いで自領に帰還する際に一揆の襲撃を受け殺害されています。

これにより武田信治(穴山勝千代)が事実上家督を相続し(形式的には天正8年:1580年に家督を相続しています)、家康からも遺領が安堵されています。しかし、信治は天正15年(1587)に疱瘡が原因により病死しています。菩提は最恩寺(山梨県南部町)に葬られたと思われ、最恩寺の境内に墓碑が建立され、寺宝として絹本着色穴山勝千代画像(山梨県指定文化財)を所有しています。

最恩寺:写真
武田信治(穴山勝千代)と縁がある最恩寺 武田信治(穴山勝千代)と縁がある最恩寺 武田信治(穴山勝千代)と縁がある最恩寺 武田信治(穴山勝千代)と縁がある最恩寺



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