日本武尊:北口本宮冨士浅間神社

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北口本宮冨士浅間神社・概要


日本武尊:北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社には、景行天皇40年(110)に東国を平定完遂後に当地を訪れ、富士山を遥拝し「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになり、その御言葉に従い「大塚丘」に浅間大神と日本武尊を祭ったと伝えられています。この由緒が正しければ足柄の坂本(相模国・神奈川県)から酒折宮(甲斐国・山梨県)に行軍する際は富士山の東側を経路として選択した事になります。一方、甲斐国一宮の浅間神社の創建は平安時代の歴史書である「日本三代実録」によると、貞観6年(864)から貞観8年(866)に富士山が大噴火し、占いによると駿河の浅間社の祭祀怠慢によるものだった事から、甲斐国側に改めて浅間神が勧請された旨が記載されています。この事から、甲斐国での具体的な富士山信仰は9世紀以降と考える方が自然と思われます。

又、江戸時代後期に編纂された「甲斐国志」によると当地が「諏訪ノ森」と呼ばれていた事について浅間神社が勧請される以前に諏訪神社が鎮座していた旨が記載され、さらに、戦国時代の天文17年(1548)に当地の領主だった小山田信有が上記の諏訪神社の神官に対して無断で富士山神事の新宮を建立する事を禁じ、永禄4年(1561)には武田信玄が諏訪ノ森の木材の伐採の禁制を発布してる事から、この時点で北口本宮冨士浅間神社は存在していないと推定されています。信玄が同年の永禄4年(1561)に富士権現の社殿を造営した事が事実上の北口本宮冨士浅間神社の創建年とされ、以降、武田家や歴代領主の庇護により、富士山信仰の一大拠点となりました。特に江戸時代中期以降に富士山信仰が一般庶民にも浸透し、登拝者が爆発的に増大し、富士山の北口登拝口に当たる当社は大きく繁栄しました。 北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市)

本社格である富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市宮町)の由緒で、江戸時代後期に編纂された「富士本宮浅間社記」によると、垂仁天皇3年には既に富士山信仰が始まっていたとされ、景行天皇の御代に日本武尊が東国平定の為に行軍し駿河国(静岡県中部・北東部)に差し掛かった際に賊徒の計略にはまり野火に囲まれると浅間大神に祈念して難を逃れ、賊徒を見事退治する事が出来ました。尊は神意に感謝し山宮(現在の山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀ったと記載されています。この事から江戸時代後期には富士山信仰と尊との伝承が確立していた事が窺えます。現在でも北口本宮冨士浅間神社の境内から数百m離れた「大塚丘」には日本武尊と浅間大神が祭られている祠が建立されています。
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※ 「全国の日本武尊:縁の社寺・温泉」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。リンクはフリーですが画像や文章等のコピーは行わないでください。