飯富家・山県家

  山梨県:歴史・観光・見所(ホーム)>天沢寺(甲斐市)
【 菩提者 】 飯富兵部少輔虎昌は源氏の棟梁だった源義家の4男である源義忠の3男、源忠宗の後裔とされます(季貞の代に飯富庄に配され、地名に因み飯富姓を名乗ったとされます)。戦国時代には一定の領地を支配する国人領主でしたが享禄4年(1531)に武田信虎に敗れ、以後、武田家の家臣となっています。数多くの戦に従軍し信頼される立場となりましたが、天文10年(1541)に武田晴信(後の武田信玄)に従い、主であるはずの信虎を追放しました。この功により晴信(信玄)の信任を得て重臣として重きを成すようになり、信玄の嫡男である武田義信の傅役を担い武田二十四将に数えられました。しかし、永禄8年(1565)、信玄が今川領(駿河国・遠江国)に侵攻するようになると、今川義元の娘を正室に迎えていた義信は信玄に対して暗殺を画策、計画が露呈すると虎昌も連座し自害に追い込まれました。享年62歳、菩提は飯富家の菩提寺である天沢寺(山梨県甲斐市亀沢)に葬られたと思われます。

山県昌景は飯富虎昌の弟又は甥とされる人物で、早くから武田信玄に仕え、義信事件の際には計画を信玄方に密告し難を逃れましたが、虎昌は自害に追い込まれています。これにより飯富家は没落し、昌景は飯富姓を捨て、山県の名跡と飯富家の家臣団を引き継いでいます。その後は武田家四天王の1人に数えられるなど重臣として「駿河侵攻」な「三河侵攻」など数多くの戦に従軍し、元亀4年(1573)に信玄が京都西上作戦中に信濃伊那郡駒場で死去すると昌景に自分の死を3年間秘匿する事と武田勝頼を補佐する事を遺言として残したとされます。天正3年(1575)の長篠の戦いでは、圧倒的な織田・徳川連合軍の前に撤退を進言しましたが、聞き入れられず討死しています。長篠から遺体を持ち帰ったとは考え難い為、天沢寺(甲斐市)の墓碑は供養塔と思われます。

山県昌満は昌景の子供とされ、天正3年(1575)の長篠の戦いで昌景が討死すると、山県家を継いでいます。昌景は駿河国江尻城代として赴任していましたが、昌満は駿河田中城(静岡県藤枝市西益津)に城代として配され、天正10年(1582)の織田家による武田領侵攻により捕縛され処刑されています。天沢寺(甲斐市)の本堂には昌満の位牌が安置されています。

【 寺  号 】 天沢寺
【 所在地 】 山梨県甲斐市亀沢
【 創建年 】 文明7年(1475)
【 開  山 】 鷹岳宗俊
【 開  基 】 飯富虎昌
【 山  号 】 巨鼇山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 飯富虎昌と山県昌景の墓碑
飯富虎昌と山県昌満の位牌安置
山梨県大名菩提寺
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