武田勝頼

  山梨県:歴史・観光・見所(ホーム)>景徳院(甲州市)
【 菩提者 】 武田勝頼は天文15年(1546)、武田信玄と諏訪御料人(諏訪頼重の娘)の子供として生まれました。永禄5年(1562)に母方の諏訪家の名跡を継ぎ諏訪四郎勝頼と名乗るようになり、武田家の通字である「信」を継承していない事からも当初は武田家を継ぐ予定がなかったと推察されます。永禄8年(1565)、武田信玄の嫡男で次期当主と思われた武田義信が信玄暗殺を画策したという嫌疑をかけられ幽閉となる事件が発生し、2男武田信親が盲目で、3男武田信之が既に死去していた事から、4男だった勝頼が候補者に繰り上がりました。元亀4年(1573)に信玄が西上作戦中に死去すると勝頼は形式的には陣代ですが、事実上武田家の家督を継いでいます。天正3年(1575)に行われた長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、懸案だった北条氏との同盟が図られ、天正5年(1577)に北条氏政の妹を後室に迎えた事で後顧の憂いを絶つ事に成功しています。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると、上杉家の家督を巡り謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間に争い(御館の乱)が発生、景虎は北条家縁の人物だった事から北条家から勝頼に対し援軍の要請がありましたが、勝頼は景勝と同盟を結んでしまいます。これにより、景勝が勝利したものの、景虎は非業の死を迎えた事で北条家との関係が悪化、それに対し、勝頼は北条家とは対立関係があった常陸の佐竹義重と同盟を結んでいます。天正9年(1581)に高天神城(静岡県掛川市)が徳川方に攻め落とされた頃から武田家から家臣の離脱が顕著となり、天正10年(1582)には新府城(山梨県韮崎市)築城に嫌気を差した木曾義昌が武田家の外戚ながら織田家に転じた事を皮切りに、本格的な織田・徳川連合軍により武田領侵攻が始まりました。又、同時期に浅間山の噴火活動が活発化した事から、武田家の家臣団は不吉の前触れと恐れ戦き、特に武田家の親戚筋で戦力的にも期待された穴山信君が徳川家に転じ領内に手引きした事が決定的となり多くの家臣が離散し始めました。唯一大きな抵抗を見せた仁科盛信が籠城する高遠城(長野県伊那市高遠町)が落城すると、勝頼は新府城を捨て小山田信茂の提案に応じ岩殿城(山梨県大月市賑岡町)に立て籠もろうとしましたが、土壇場で信茂も勝頼を見限った為、進退窮まり武田家縁の天目山で最後を迎えようとしました。しかし、滝川一益の軍に追いつかれ、その望みも叶う事が出来ず、勝頼は現在の景徳院(山梨県甲州市)の境内がある場所で夫人と嫡男である武田信勝と共に自刃しました(景徳院は徳川家康の命で、勝頼の菩提を弔う為に武田家旧臣の小幡勧兵衛景憲が拈橋を招いて創建された寺院。寺号の「景徳院」は勝頼の法名に由来しています)。享年37歳。法名:景徳院殿頼山勝公大居士。景徳院の境内には武田勝頼の墓碑があり山梨県指定史跡に指定されています。

【 寺  号 】 景徳院
【 所在地 】 山梨県甲州市大和町田野
【 創建年 】 天正16年(1588)
【 開  山 】 拈橋
【 開  基 】
【 山  号 】 天童山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 武田勝頼の墓碑(景徳院境内全域:山梨県指定史跡)
山梨県大名菩提寺
三条夫人武田信虎大井夫人武田義信・諏訪頼重武田信親武田信武・武田勝頼飯富家・山県家屋代勝永源清光武田信重武田信義円井家・山本勘助小山田家小山田家・鳥居家・秋元家養珠院武田信治武田信玄武田信満武田信成武田勝頼武田信昌加藤景忠
※ 文章や画像のコピーは御遠慮ください。御理解の程よろしくお願いします。