武田信玄

  山梨県:歴史・観光・見所(ホーム)>恵林寺(甲州市)
【 菩提者 】 武田信玄は甲斐国守護職で、武田家18代当主である武田信虎大井の方(大井信達の娘)の嫡男として生まれました。天文5年(1536)に元服し、三条の方(三条公頼の娘)と再婚、天文10年(1541)に父親である信虎が駿河国の今川家に滞在中に領内を封鎖し、家督の強奪と家臣団を掌握しています。信玄がクーデターとも言える家督争奪劇を起こしたのは諸説ありますが、信玄個人としては日頃から信虎とは仲が悪く、逆に寵愛を受けた弟である信繁に家督が譲られる可能性が高かったとされ、一方、家臣団の方は度重なる遠征により領内が疲弊し信虎に対して不満が募っていたとも推定されています。ただし、信玄が家督を継いだ後も他国への侵攻は続き、天文11年(1542)には信濃国諏訪地方の領主で信濃国一宮である諏訪神社上社の大祝家である諏訪頼重(信玄の妹婿)を滅ぼし、天文12年(1543)には信濃小県郡長窪城(長野県小県郡長和町)の大井貞隆を滅ぼし、天文15年(1564)には内山城(長野県佐久市)攻め、天文16年(1547)には志賀城(長野県佐久市)攻めが行われ信濃佐久地方が略掌握しています。天文22年(1553)になると北信濃の小笠原氏と村上氏との対立が激化し、その後ろ盾となった上杉家との関係が悪化すると、天文23年(1554)に甲相駿三国同盟(甲斐:武田家・相模:北条家・駿河:今川家)を結び後顧の憂いを絶つ外交政策を行っています。その後、数度に渡る上杉謙信との川中島の戦いを経て北信濃がある程度安定すると、木曽や飛騨、美濃、上野にも侵攻を開始し領地拡大に力を注いでいます。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで同盟者だった今川義元が織田信長に討たれると、今川家の領地侵攻を画策した信玄と義元の娘を正室として迎えていた嫡男武田義信との対立を招き、結局義信は幽閉され永禄10年(1567)に自刃に追い込まれています。永禄11年(1568)から本格的に駿河国に侵攻し、永禄12年(1569)には北条氏真を追放し駿河国を掌握しています。しかし、甲相駿三国同盟を破棄した事で、北条家との対立を深め、結果的に織田信長の台頭を招き武田家だけでは織田家を押さえる事が出来ない事態となっていました。その後、室町幕府15代将軍足利義昭が画策した信長包囲網に参画し、元亀3年(1572)その一環として信玄は西上作戦を決行、三方原の戦いでは織田・徳川連合軍に大勝し、特に徳川軍には壊滅的な被害を与えました。しかし、元亀4年(1573)、三河野田城(愛知県新城市豊島本城)を包囲している最中に信玄の病による体調悪化で自領に引き上げる事になり、その帰還の途中、信濃駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場:※所説有り)で息を引き取ったとされます。跡を継いだ、4男の武田勝頼は遺言に従い3年後の天正4年(1576)に恵林寺(山梨県甲州市)で本葬が営まれ、恵林寺の境内に葬られ墓碑が建立されています。享年53歳。法名:恵林寺殿機山玄公大居士。武田信玄の菩提寺である恵林寺には信玄の墓碑の他、信玄の縁の品々が奉納されています。

【 寺  号 】 恵林寺
【 所在地 】 山梨県甲州市塩山小屋敷
【 創建年 】 元徳2年(1330)
【 開  山 】 夢窓疎石
【 開  基 】
【 山  号 】 乾徳山
【 宗  派 】 臨済宗妙心寺派
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 武田信玄の墓碑
山梨県大名菩提寺
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