法泉寺(甲府市)概要: 金剛福聚山法泉寺は山梨県甲府市和田町に境内を構えてる臨済宗妙心寺派の寺院です。法泉寺の創建は南北朝時代の元徳年間(1329〜1332年)、武田信武(当時の甲斐守護職、武田家10代当主)が月舟禅師(夢窓国師の高弟)を招いて開いたのが始まりとされ夢窓疎石を開山としています(月舟禅師は形式的には2世)。
信武は法泉寺を自らの菩提寺とし正平14年(1359)又は正平17年(1362)に死去すると当寺の境内に葬られています(戒名:清浄心院殿雪山照公禅定門)。山号は境内にある金剛福聚岩と称する巨石に因んだもので境内背後の山の山頂にある大岩と呼応していると云われています。
武田信玄の代になると快岳周悦和尚を招き再興、武田家の祈願所に定められると堂宇の整備や寺領の寄進が行われ、さらに甲府五山(東光寺・能成寺・長禅寺・円光院・法泉寺)に列すると篤く庇護され寺運も隆盛します。
天正10年(1582)、天目山の戦いで勝頼が敗れると、勝頼の首級は織田信長の命で京都六条河原にさらし首となりましたが法泉寺3世の快岳宗悦和尚(家臣とも)が妙心寺の南化和尚の助力を得て歯髪の一部を密かに持ち帰り法泉寺の境内に埋葬したそうです。
同年、信長が本能寺の変で自刃すると甲斐、信濃が混乱に陥り、徳川家康の平定に快岳宗悦和尚が協力した事もあり、家康は法泉寺を勝頼の菩提寺として定め寺領37貫5百文を安堵しています。江戸時代に入ると引き続き幕府が庇護し御朱印地54石を領し末寺26ケ寺を有し文政13年(1830)の勝頼250回忌の際には甲冑姿の肖像が奉納されています。
甲斐国三十三観音霊場第8番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:遥々と 登りて見れば 瑞祥寺 峯の嵐か 松風の音)。甲斐百八霊場第62番札所。甲斐八十八ヶ所霊場第32番札所。山号:金剛福聚山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:弥勒菩薩。
現在の法泉寺本堂は延宝8年(1680)に再建されたもので、入母屋、銅板葺、平入、桁行9間、梁間6間、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。寺宝が多く、鎌倉時代末期に製作されたと推定される釈迦如来座像(寄木造、玉眼、彩色、像高53cm)と夢窓国師座像(寄木造、玉眼、彩色、像高43cm)、法泉寺古文書(武田信玄判物、武田勝頼判物、徳川家康判物、徳川家康奉行判物、伊那熊蔵黒印状、加藤光泰判物、浅野長政判物、平岩親吉判物等)、文化10年(1813)に建立された経蔵(宝形造、桟瓦葺、塗屋造、桁行8.6m、梁間9.4m)と内部にある木造八角輪蔵(総高約4.5m)が甲府市指定文化財に指定されています。
法泉寺楼門は江戸時代初期の寛永14年(1637)に4世大器禅師によって建てられた建物で、入母屋、桟瓦葺(鯱付)、一間一戸、四脚鐘楼門(元々の梵鐘は明治時代初期に吹き荒れた廃仏毀釈運動によって失われています)、外壁は真壁造り板張り、上層部は柱のみの吹き放し、高欄付、甲府市指定文化財に指定されています。
武田信武之墓(墓域:横2.6m、縦1.7m・宝篋印塔1基・五輪塔2基・無縫塔1基)、武田勝頼之墓(墓域:横2.6m、縦2.7m・宝篋印塔1基・宝珠形供養塔1基・山桜・戒名:法泉寺殿泰山安公大居士)が甲府市指定史跡に指定されています。
法泉寺の文化財
・ 法泉寺経蔵及び木造八角輪蔵−文化10年−甲府市指定文化財
・ 鐘楼門−寛永13年−入母屋、桟瓦葺、四脚楼門−甲府市指定文化財
・ 釈迦如来座像−鎌倉時代末期−寄木造、彩色−甲府市指定文化財
・ 夢窓国師座像−鎌倉時代末期−寄木造、彩色−甲府市指定文化財
・ 法泉寺古文書−歴代領主の判物や古文書、資料等−甲府市指定文化財
・ 石造井戸側−慶安2年−安山岩製、一石刳貫式−甲府市指定有形民俗文化財
・ 武田信武之墓−江戸時代−宝篋印塔−甲府市指定史跡
・ 武田勝頼之墓−江戸時代−宝篋印塔−甲府市指定史跡
法泉寺:上空画像
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