山縣大弐之墓(甲斐市)概要: 山縣大弐は享保10年(1725)、甲斐国巨摩郡北山筋篠原村(現在の甲斐市篠原)に生まれ、幼少の頃から国学を学びました。その後京都に出ると広く学問を学び延享2年(1745)に山形家の家督を継ぐと公布勤番与力として甲府城に勤任しました。
宝暦元年(1751)、弟が殺傷事件を起した事から浪人となり宝暦4年(1754)からは岩槻藩大岡忠光に仕えました。宝暦10年(1760)に忠光が死去すると大岡家を離れ江戸八丁堀長沢町(東京都中央区八丁堀3丁目)で私塾(柳荘)を開くようになり医学や儒学、兵学、天文、経済、地理を教える一方で「柳子新論」「天経発蒙」などを編纂し大きな影響力を与えました。
特に小幡藩(群馬県甘楽町)の家老吉田玄蕃など小幡藩の藩士らと関係が深く、小幡藩の顧問として招聘される程でしたが御家騒動から藩士の1人が山縣大弐が幕府の方針に批判的(特に「天に二日なく、民に二主なし」と尊王論を論じました。)であり倒幕の計画(兵学の講義に徳川家の城を例に出し、攻略方法を論じた。)がある事を密告され明和3年(1766)に捕縛され翌年明和4年(1767)に処刑されました(明和事件)。
その後、大弐の遺髪が兄の昌樹によって菩提寺である金剛寺(現在の山縣神社隣)に埋葬されました。山縣大弐之墓は昭和52年(1977)に甲斐市指定史跡に指定されています。又、大弐の墓は全勝寺(東京都新宿区:新宿区指定史跡)と泰寧寺(茨城県石岡市:茨城県指定史跡)にもあります。
山縣大弐之墓:上空画像
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