北杜市: 神部神社

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概要・歴史・観光・見所

神部神社(北杜市)概要: 神部神社は山梨県北杜市須玉町小尾に鎮座している神社です。崇神天皇の御代、この地は御代神地だったことから神戸と称されていたそうです。

その後、日本武尊が東夷東征の際、この地へ逗留し現在の境内付近で多くの蛮族を平定、大宝元年(701)に神部神社が勧請され創建しました。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社、旧小尾の総鎮守として広く信仰され、中世は武田氏が神像や鏡などが寄進されています。

江戸時代に入ると徳川家から庇護され社領3斗6升が安堵されています。近世までは蔵王大権現、神門社などと称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令が発令されると旧社号である神部神社に改称し村社に列しています。

現在の本殿(附 棟札4枚・金銅蔵王権現懸鏡1面)は慶長18年(1613)に建てられたもので、一間社流造、檜皮葺、桁行1.85m、梁間1.47m、彫刻や組物など室町時代の技法を継承する貴重な神社本殿建築として昭和63年(1988)に山梨県指定文化財に指定されています。祭神:天手力男命、誉田別命、広國押武日命、諏訪大神。

神部神社には「日本武尊が東征の折り、東小尾で湯治し当社前を通り猛獣、毒蛇、叛賊を退治して東征に向かった。」との伝説が残されています。一方、由緒によると大宝元年(701)に創建した事になっています。色々矛盾している所が多い印象ですが、一つは「東征の折り」という一文は、日本武尊が当地を訪れた時には既に神部神社が鎮座していた事になりますが、尊が東征したとされる景行天皇40年が明確な西暦は判らないものの大宝元年(701)よりは遥か以前だった事は推察されます。「東征に向かった。」という一文は神部神社を起点として東征に向かったという意味から、東国への往路だった事を意味していますが、所説あるものの一般的な往路は太平洋側(相模や武蔵、上総、常陸等)から陸奥国に行軍している事から当地は経路からは大きく逸脱しています。

一般的に甲斐国は東国平定後の復路の経路とされ、各地で日本武尊の伝説が残されています。そういう意味では、当地は甲斐国から信濃国に向かう復路の経路の近くにあり、本来復路の伝説だったものが時代が下がるに従い間違って伝わったかも知れません。神部神社の近くの通仙峡には増富温泉(山梨県北杜市須玉町小尾東小尾)があり上記の伝説にある東小尾で湯治した事に符号しています。

増富温泉では日本武尊が温かい出湯を発見したという伝承が残されているものの積極的では無く、戦国時代に金山を開発した際に武田信玄が発見し、家臣や鉱山で働く人々の為に隠し湯として整備されたとしています。ただし、温泉街の一角にある「浜井場」は日本武尊が、猛獣、毒蛇、叛賊を退治する為に利用した破魔弓を立てた場所が転じて「破魔弓場」さらに「浜井場」になったと伝えられています。

又、「浜井場」近くに鎮座する東屋神社は、尊が住民に農業を教えたくれた事を感謝し、日本武尊と弟橘姫命、木花咲耶姫命を祭ったと伝えられています。神部神社はその後、平安時代に格式の高い神社を纏めた延喜式神名帳にも記載されるなど周辺の鎮守として知られるようになり、中世は武田家から庇護を受け、江戸時代には僅かですが幕府から朱印地が認められています。又、本殿は江戸時代初期の古建築として評価を受け山梨県指定文化財に指定されています。

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神部神社:上空画像


神部神社:ストリートビュー

神部神社:写真

神部神社境内正面に設けられた自然石の社号標と朱色の鳥居
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神部神社参道石造橋から見た歴史が感じられる境内の様子 神部神社境内から見た拝殿正面と石燈籠 神部神社の境内に設けられた覆い屋に納められた本殿 神部神社例祭で神楽が奉納される瀟洒な神楽殿


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