台ヶ原宿(北杜市)概要: 台ヶ原宿の起源は不詳ですが古くから交通の要衝で甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ・・・」と記載されている事から比較的早くから宿場的な機能を持っていたと思われます。
元和4年(1618)、甲州街道が開削されると台ヶ原宿も宿場町として整備されたと考えられ、天保14年(1843)には宿場の規模は東西9.5町、人口670人、家屋153戸と発展しています。
台ヶ原宿には本陣1軒、問屋場1軒、旅籠14軒(大1軒・中6軒・小7軒)、高札場1ヶ所、郷蔵1ヶ所、一里塚1ヶ所が設けられ人足25人、馬25頭が配備され、諏訪藩と高遠藩、飯田藩の3藩が参勤交代で利用した他、佐渡金山で産出物を甲府や江戸まで運んだ重要な道筋として幕府から重要視されました。
台ヶ原宿本陣は小松家が世襲し、往時は敷地面積351坪(間口18間、奥行19間)に建坪92坪(表門、式台付の玄関、上段の間、書院造)の格式の高い建物が建てられ、大名が参勤交代等で台ヶ原宿を通過した際に休息や宿泊で利用されました。又、敷地内には台ヶ原宿の防火を祈念して慶応3年(1867)に「秋葉大権現常夜石灯籠」が建立されています。
正式な脇本陣は定められず、場合によっては宿場の役人宅がその役目を代行し台ヶ原宿では諏訪藩の御用商人だった北原家や田中神社の拝殿などが利用されています。
台ヶ原宿は現在でも北原家住宅や台原家住宅などの古民家が点在し良好な町並みが残され歴史的にも重要な事から昭和61年(1986)に日本の道百選(北巨摩郡白州町台ヶ原〜白州町白須)に選定されています。
【 田中神社 】-台ヶ原宿の鎮守である田中神社は格式ある神社で慶安5年(1652)から元禄3年(1690)にかけて御茶壺道中の宿泊所として利用し感謝の意から2度社殿改修の際に修復費の一部が寄進されています。
御茶壺道中とは将軍専用の宇治の新茶を納める茶壺を運んだ行列の事で、往路は東海道、復路は中山道と甲州街道を利用し、宇治で茶壷を受け取った一行は奈良井宿や下諏訪宿、台ケ原宿などで宿泊しながら江戸城に帰城しています。格式が余りにも高かった事から行列を行った人物の人柄によっては横柄な態度をとる場合も多く台ケ原宿の人々も道中の際は大変気を使った事が記録などからも窺えます。
【 北原家住宅 】-現在も偉容を誇っている北原家は高島藩(諏訪藩)の御用商人だった家柄で、現在も格式ある建物が残され明治13年(1880)の明治天皇の巡幸の際には行在所として利用されています。
北原家住宅は天保12年(1841)〜嘉永7年(1854)頃に建てられたもので平成12年(2000)に山梨県指定有形文化財(建造物)に指定されています。
台ケ原宿は甲州街道の宿場町の中では良好な町並みを残している事から昭和61年(1986)に日本の道百選(北巨摩郡白州町台ヶ原〜白州町白須)に選定されています。
【 甲州街道 】-甲州街道は江戸時代初期に初代将軍となった徳川家康によって制定された五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)の1つとして整備された街道です。経路は江戸に日本橋から内藤新宿、甲府城下、高島城下(上諏訪宿)などを経て中山道の下諏訪宿に至る街道で笹子峠などの難所や猿橋などの名所がありました。
下諏訪宿から見ると中山道よりも最短距離で江戸と結んでいましたが、参勤交代で中山道を利用した西国大名が甲州街道を利用する事が制限されていた為、結果的に信州東部を領した高島藩(諏訪藩:長野県諏訪市、高島城が藩庁)、高遠藩(長野県伊那市高遠町、高遠城が藩庁)、飯田藩(長野県飯田市、飯田城が藩庁)の3藩に限定されました。
これは、甲州街道が他の4街道よりも軍事的要素が強く、甲府城(山梨県甲府市)を江戸城の支城として位置づけ、当地方からの侵入を押えると共に、もし、江戸城が落城した際には甲州街道が退路の経路として想定し、甲府城を拠点にして反転攻勢をかける事が計画されていたそうです。
その為、距離が短いものの小仏関所(東京都八王子市)と鶴瀬関所(山梨県甲州市大和町鶴瀬)の2箇所に関所が設けられ厳重に人物改めや荷物改めが行われていました。
台ヶ原宿:上空画像
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