笛吹市: 美和神社

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概要・歴史・観光・見所

美和神社(笛吹市)概要: 美和神社は山梨県笛吹市御坂町二之宮に鎮座している神社です。美和神社の創建は景行天皇の御代、日本武尊が当時の甲斐国造である塩海足尼に命じて大神神社(奈良県:三輪山を御神体とする。)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。貞観5年(863)に編纂された日本三代実録では従五位に列し、仁和2年(886)には国司 橘良基が甲斐二ノ宮としたそうです(一条天皇から二ノ宮の号を与えられたとも)。

延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社桙衝神社の論社ですが、一般的には尾山地区に鎮座する杵衡神社を山宮とし美和神社を里宮に見立てているようで、伝承では三輪大神を勧請した後に杵衡神社の地に遷座し、さらに現在地に遷座したとも云われています。

鎌倉時代後期の弘安年間(1278〜1288年)には宇多天皇(第59代天皇・在位:仁和3年:887年〜寛平9年:897年)から正一位の神階と社号の勅願を賜わるなど中央にも知られた存在で、歴代領主や為政者からも崇敬されました。

特に中世に甲斐守護職だった武田家からは篤く庇護され武田信虎は社領を寄進、武田信玄は勤番役を免除すると共に永禄6年(1563)には板絵著色三十六歌仙図を奉納、永禄9年(1566)には具足を奉納、信玄嫡男で時期当主と目された武田義信も多くの寄進、奉納を行い、元亀4年(1573)には武田家の家督を継いだ武田勝頼が武運長久の祈願を行い天正7年(1579)には美和神社に対して禁制を出し保護に努めています。

天正10年(1582)、武田家が滅ぶと一時混乱しますが、新たに領主となった織田信長と織田信忠が禁制を発布、同年、本能寺の変で両者が倒れると天正11年(1583)には徳川家康が社領の寄進、天正17年(1589)には徳川家家臣である伊奈忠次から社領の安堵が行われています。

天正18年(1590)に徳川家の関東移封に伴い豊臣家の支配になると、家臣であるある加藤光泰や浅野長政・幸長も美和神社を庇護しています。江戸時代に入ると幕府により庇護され3代将軍徳川家光は社領177石を安堵し歴代将軍が追認しています。明治時代の神仏分離令を経て県社に列しています。祭神:大物主命。

美和神社には社宝が多く木造大物主神立像は平安時代初期(藤原時代)に制作されたもので、楠材、像高130.6cm、冠、唐様の服装、拱手持笏、当時の神像として珍しく、保存状態も良く大変貴重な事から明治39年(1906)に国指定重要文化財に指定されています。

例祭で奉納される太々神楽は江戸時代中期の元禄年間(1688〜1703年)頃から始まったと推定され、「大八州の舞」や「天降りの舞」など25座の舞が行われ、古式を伝える神事として貴重である事から名称「美和神社の太々神楽」として昭和56年(1981)に山梨県指定無形民俗文化財に指定されています。

【 日本武尊 】- 美和神社は甲斐国二之宮という格式の高い神社で、江戸時代に編纂された「甲斐国社記・寺記」によると「景行天皇の御宇日本武尊の命にて甲斐国造塩海足尼が大和の大三輪明神より勧請する。」とあります。酒折宮の社記では日本武尊の連歌の相手で、火打石を入った袋(尊が伊勢で倭姫から授かった火打嚢。)を賜ったとされる御火焼の老人が塩海足尼としている事から、それが正しければ尊が任命した「東国造」は「甲斐国造」という事になります。

大同年間(806〜810年)以後、延喜書紀講筵(904〜906年)以前に成立したとみられている日本の史書であり、神道における神典である「先代旧事本紀」巻第十国造本紀では「景行朝の御世に、狭穂彦王の三世孫の臣知津彦公と、その子の塩海足尼を国造に定められた。」とあります。※「先代旧事本紀」は偽書説が有力で国造本紀は資料的な価値があるとされます。

御火焼の老人と塩海足尼が同一人物だったのかは判りませんが、少なくとも平安時代には景行天皇の御代の頃の甲斐国の国造は塩海足尼だったと認識されていたようです。狭穂彦王は日本書紀には同名、古事記では沙本毘古王として描かれ、垂仁天皇当時の皇族で所謂「狭穂彦王の叛乱」を起こすものの失敗に終わり自害したと記されています。

日本武尊は垂仁天皇の孫にあたる為、狭穂彦王の4世孫の塩海足尼とはやや時代が異なる印象を受けます(狭穂彦王の妹が垂仁天皇の后だった事から狭穂彦王と垂仁天皇は同年代と推察されます)。個人的には尊が実在するとすれば4世紀中期〜後期、塩海足尼が実在するとすれば5世紀の人物だった考えられる為、御火焼の老人が甲斐国造の関係者ならば塩海足尼の祖父か父親である臣知津彦公の可能性の方が大きいと思われます。

何れにしても、甲斐国は4〜5世紀頃から大和朝廷に臣従するようになり、その臣従の証として奈良県桜井市三輪に鎮座する大神神社の祭神(大物主命)を奉斎するようになったと考えるのが自然と思われます。御火焼の老人の時代の本拠地(宮殿)は酒折宮で、当時は地元神が奉斎されていたと考えられる為、美和神社の創建は7世紀に甲斐国が立国し現在の笛吹市内に政庁が設けられた前後とと思われます。

平安時代に成立した歴史書の1つ三代実録には貞観5年(863)6月8日の条に「甲斐國從五位下勳十二等物部神。美和神從五位上」と記載され平安時代には既に格式の高い神社として認識されていた事が窺えます。

これらの事から察すると、当初の甲斐国造の氏神は、酒折宮に近くの御室山山上に鎮座していた玉諸神社(三之宮)で、その後、大和朝廷への配慮から美和神社(二之宮)が創建され、さらに富士山の大噴火に恐れを成した朝廷が浅間神社(一之宮)が創建されたのかも知れません。

美和神社の文化財
・ 大物主命神像−平安時代初期−国指定重要文化財
・ 板絵著色三十六歌仙図−永禄6年−山梨県指定文化財
・ 白糸威褄取鎧〈残欠〉− 南北朝時代−山梨県指定文化財
・ 朱札紅糸素懸威胴丸 佩楯付−伝信玄元服鎧−山梨県指定文化財
・ 太々神楽−山梨県指定無形民俗文化財

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美和神社:上空画像

【 ポイント 】美和神社には良く判らない事が多い神社で、その一つが仁和2年(886)に国司である橘良基が甲斐二ノ宮の格式を与えたという由緒です。橘良基は伊予権介、常陸介、越前守、丹波守、信濃守を歴任し仁和元年(885)に罪人を無許可で放免した事から京都に召喚され、取り調べの最中の仁和3年(887)に死去したと記録されています。そこから察すると、美和神社に甲斐二ノ宮の格式を与えたのは橘良基とは考え難いと思われます。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


美和神社:ストリートビュー

美和神社:写真

美和神社境内に設けられた大きな木製鳥居と聖域を感じさせる杉林
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美和神社参道の歴史を感じさせる石畳から写した拝殿正面と石造狛犬 美和神社ブロック塀越に見える祭神が祭られている本殿と幣殿 美和神社例祭で神楽が奉納される瀟洒な神楽殿を撮影した画像 美和神社境内敷地奥に設けられた古びれた土蔵


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